立てばギクシャク、座ればバタン、歩く姿はユラリンコ
これはもうだれもが、笑ってしまいます。元句は言うまでもなく
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花
美人の姿は何をしても美しいという句です。
冒頭のもじりには子ども大人もこれを聞いてその可笑しさに笑い転げます。
でも子どもと大人に何がおかしいか、と聞くとその返答はまったく
違うでしょう。
言葉に興味を持ち始めた子どもは自分でこの句を言いながら、ギクシャクで体をくねらせ、バタンで床に身を投げ出し、ユラリンコでふらふら歩いてみせます。音の可笑しさ、擬態語の可笑しさが楽しくてたまらないといった様子です。
ところが大人は別の楽しみ方をしています。「立てばギクシャク」を聞いた瞬間に音の類似もさることながら、美人と不美人の形容の取り合わせに180 度転換の妙にカタルシスを味わうのでしょう。
なにおっ、自分こそ腰回りの肉をゴミに出せ、と口には出せないくやしさがうっせきしています。
会社では秘書課の美人が腰をくねらせているのをただ見つめるだけの侘びしさ。
そこに「座ればバタン、歩く姿はユラリンコ」とくれば、ざまぁ見やがれてんだ、とわけのわからない留飲を下ろすことに相成ります。
このように元句が素養としてあるから留飲が10倍の速さで快く下りて行きます。
この句はまた政治批判にも登場しました。
「国対政治」 立てば玉虫 座れば妥協 歩く姿は先送り 春泥
(朝日新聞 かたえくぼ)