高校の英語の時間に同族目的語構文というのを習いました。
たとえば「幸せな人生を送る」を英語でlive a happy life ということもできます。動詞 live の名詞は life です。これを使って
live a happy life(幸せな人生を送る)
とする言い方のことです。次もその例です。
smile a forced smile
(無理に笑う)
die a miserable death (みじめな死に方をする)
日本語でも時々出会います。
十数軒が障害者を迎えて、家族同様に暮らす。自前の店や
共感してくれる店で、障害者が働く。「障害者は一人では
生きれない、人間の始原の姿です。隔離されず身近にいる
ことで、人は自分の生をよく生きられる」。(最首悟)
「自分の生を生きる」は「自分なりに生きる」より「生」を客観的に
とらえている、そんな力強さが感じられます。次もそうです。
モーゼスおばさんは、その美しい絵に劣らぬほど美しい生涯を
生きた人である。 (清水建宇)いるように感じられます。「美しい生涯を生きた」のほうが観察者の
客観的であろうとする視点がはっきりします。
言葉の妙を楽しめばよいのですが、書き手にとって、Aを表現するには
P しかないのであって、Q でも R でもよいなんてことはないはずです。そのようなこれ以外では表せないという表現に出会いました。
それがたまたま同族目的語の表現で「死を死ぬ」でした。私は
次の1行に出会ったときの衝撃を今でも忘れることができません。
多田亀はその後シベリアで非業の死を遂げた、という。
どのような死を死ぬことができたのだろう。
(森崎和江『からゆきさん』)
多田亀とは女性を性の道具として売買した極悪非道の、どんな理屈を
つけても人間と呼ぶに値しない男です。それを追跡調査した森崎和江は、あの極悪人が「どのような死を死ぬことができたのだろう」と書いたのです。
「どんなふうに死んだのだろう」
でもなく、
「どのような死に方をしたのだろう」
でもありません。今もそして永遠に地獄の業火に焼かれ続けることを
避けられない、殺しても殺しきれない。それを表すには「どのような
死を死ぬことができたのだろう」以外に書きようはありません。
ものを書くとはこのような言葉づかいをすることだと言えます。
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