市が発行している広報でも同じような呼びかけをしています。
犬はつないで飼いましょう。放し飼いの犬は、人にかみついたり、
フンで道路やよその家の庭などをよごしたりして、多くの人が迷惑します。
犬の運動、散歩時には必ずフンの始末を行いましょう。
フンはビニール袋などを持参し、責任をもって処理しましょう。
さらに次の文章にも犬のフンが登場します。
このころ、サンフランシスコの市条例で、イヌに散歩させるときは、
路上に落としたフンを飼い主が片付けることが義務づけられた。そこで、
その場でフンをすくいあげるスクーパーが売りに出されたことが、
新聞で大きく取り上げられた。チリトリのお化けみたいな道具で、
こんなものを持ってイヌの散歩などする気になれるのだろうか。
(枝川公一『開けてみればアメイリカン』)
犬のふんを話題にとりあげたのはわけがあります。ここまで読んで
「犬のふん」という言葉に嫌悪感をいだいた人はいないでしょう。
この言葉自体に感情が入っていない、文字通りお役所からの通達だからです。
しかし同じ「犬のふん」でも使い方によってはどのような効果を生じるか
その一例をみてみましょう。文芸評論家江藤淳が、話題になった
『裏声で歌へ君が代』(丸谷才一著)を読んでみたくなったというくだりです。
私がこの小説を読んだのはほんの一週間ほど前のことである。
百目鬼編集委員によれば「人気作家が十年かけて書き下ろした」というこの長編小説を、私は申訳ないことに半日足らずで読んでしまった。
いや、実をいえば途中ですこし飽きて、しばらく机の廻りを片付けたり
庭へ出て犬の糞を拾ったりしていたので、
正確な所要時間は三時間半であった。そうして私は、
しばらく考え込んだ。つまり、足りないのである。欠けているのである。
何が足りなくて、何が欠けているのか、私はしばらく考えていた。
(江藤淳『裏声文学と地声文学』)
初めの段落の、十年かかった書いた小説を三時間余りで読んだというところに
すこし意地が悪い書き方だなと感じませんか。
『裏声で…』が面白いか面白くないかはともかく、江藤淳の文章は、私には、意地悪さが感じられます。市役所の広報で中立語として使われていた
「犬のふん」が悪臭を放っています。誰にも読書の傾向はあり、
好きな作家もいれば嫌いな作家もいます。作家が十年かけて書き下ろした
長編小説でも途中で飽きて庭に出ることもあり得ます。そして、
しばらく植木に水をやったとか花をつんで花瓶に挿したとか
書くことができるはずです。
でもこともあろうに(これは感嘆語です)、
「犬の糞を拾ったり」と書く意地悪さが行間に透けて見えます。
自分の作品について、飽きたので犬の糞を拾って気分を変えたと
評されてうれしい作家はいないでしょう。
その事情が分かっている批評家ですからあえて「犬の糞」を使ったのに
違いありません。
このように悪意のない言葉でもそれを意図的なコンテクストに投げ込むと
恣意的な大きな効果を生むことができる。
言葉の意味はコンテクストで決まる一つの例です。
丸谷才一さんが亡くなりました。合掌
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