子供を殴ったりけったり、挙句の果てに殺しちゃったりする人が
多すぎる。 (京都新聞)
じゃ、何人くらいだったら多過ぎないのか、と青筋立てて怒ることもできる。
だがそれは豊かな言葉の世界に無縁の人である。
実際に怒っている人を見たことはない。
子殺しは、たとえ、一人であっても多すぎるのは自明のことだからだ。
「パジャマを脱ぎっぱなしにしないでと何度言ったらわかるの!」と言われて
「あと1万回」と逃げるのもこのレトリックがわかっていればこその遊びである。
しかし、ことば遊びだと呑気に構えていることができないこともある。
「この苦しみが何度繰り返されるのか。」地元の反発を押し切る形で
米軍の新型輸送機MV22オスプレイが配備された中で起きた事件に、
県民は怒りをあらわにする。日本政府は「タイミングが悪すぎる」と
困惑し、米側も対応に苦慮している。 (京都新聞)
「何度繰り返されるのか」は反語疑問文なので真意は伝わる。
しかし「タイミングが悪すぎる」はどういう意図をもって発言されたのか。
米兵が強姦事件を起こすのに「悪すぎないタイミング」があるはずはない。
こう述べた政府筋は「適切なタイミングがあるだろうによりにもよって
オスプレイで難しい時に」と考えたのではないことはわかる。
しかしこういう言葉が口から飛び出すのはやはり思考回路が短絡しているからだ。
いや、短絡的思考というより「殺しちゃったりする人が多すぎる」
「タイミングが悪すぎる」といった言葉から考察すると
「紋切り型」に寄りかかりすぎているとしか言いようがない。
怒りをあらわにする
対応に苦慮している
まるで「柿の実がたわわにみのり」と同じレベルの報道だ。
つまり、書き手の顔が見えないのだ。
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