2012年12月31日月曜日

ボニー・アンド・クライド 

 2001年の米国映画『スイート・ノーベンバー』を見ました。
(原題は Sweet November)

その1シーン。
脳の実験をされることになっている犬を助けようと、
シャーリーズ・セロンが盗み出しに建物に忍び込みます。
警報機が鳴る中、外で待っているキヌア・リーブスの車に、
助けた犬を抱いて飛び込んできます。
その逃走中の車の中での字幕スーパー。

 

 女「映画みたい」 

   男「冗談じゃない」

 女「なぜ」

 男「死にたくない」

 

この字幕訳では、「映画みたい」と「死にたくない」が
短絡しているのでよくわかりません。「映画みたい」は
英文は Like Bonnie and Clyde.  と言っています。それなら
「死にたくない」は、あの映画『俺たちに明日はない』を
見た人にはすぐにわかります。

 

あの衝撃的なラストシーンが思い浮かぶからです。
(どのようなシーンかは言いたくても言わないのがルールです。
かつて、試写会で案内嬢が「これは戦争映画なのですが死者が
一人も出ません」と言いました。これで戦闘シーンでもだれも
死なないのが知らされてしまったのでちっとも面白くありませんでした。
ちなみにその映画は『ジャー・ヘッド』でした。アッ、言っちゃった!)

 
映画評論かとか解説者は何であんなにおしゃべりなのでしょうか。
 
 

2012年12月27日木曜日

三句以内  

 京都新聞の歌壇、俳壇、柳壇の投稿規定にこう書かれています。

 

    はがき1枚に同壇で3首・句以内。
 
 

 

この「以内」には日常に使っているのとは別の意味があることを

このたび初めて知り、驚きました。 次はその選者の一人の指導です。

 

     毎回熱心な投句を拝見して思うことですが、はがき一枚に

作品三句以内とされているにも関わらず毎回、一句の方、

二句の方が二十名前後あるのが残念でなりません。

入選、佳作の中に一句だけでも入り込める句も希にはありますが、

折角の機会、視点を変えて違う着想を三句とするべきでしょう。

 (武内幸子 京都新聞2010/5/31

 

  普通「三句以内」では一句でも二句でもよいはずですが、選者は、

三句まではよいのだからなぜ三句作らないのか、

もっと貪欲に句作に励みなさいと言っているのです。

 

我が身を振り返ってみると、このような相手の真意を取り違えて
仲が悪くなることもあった、そんなことも思い当ります。

 

2012年12月23日日曜日

「に」と「で」



  アンテナに雀が三羽話してる     八田幸夫 

 

私が作句すれば「アンテナで」として、

奥行きのない凡百の風景描写となったことでしょう。

 

「アンテナで 雀が三羽話してる」

「アンテナに 雀が三羽話してる」

 

二つを並べてみると間合いの重要さが分かります。
 
 
 

2012年12月18日火曜日

たばこ吸ってもいいですか


新聞の投書から。

 

   建前は「室内禁煙」だが、あまり守られていない私の

職場。今日も愛煙家氏が、近くに座っているたばこ嫌い

の同僚に声をかけた。「たばこ1本吸っていいかな?」

いつもこれでなし崩しにされることに怒っている嫌煙家氏、

冷たく一言。「吸ってもいいけど煙吐かないでね」

                      (朝日新聞1999年3月14日)

 

ブラボー。うまいね。「たばこを吸う」=「たばこを味わう」

という普通の解釈を、文字通りの意味「吸い込む」だけに限

定した受け応えが冴える。お笑いのステージでもこのギャグは

聞かれるが古くからあるネタなかどうか。
 
 

2012年12月15日土曜日

差し入れ


女優の菅野美穂さんはTVドラマ『坂の上の雲』に
正岡子規の妹役で出演しました。「一つの役を3年も
演じられるのは生涯一度の経験」と意気込んで、


    出番がなくても、自費で海外のロケ地を陣中見舞い
    訪れるほど、思い入れが強い。 


と京都新聞が伝えました。



「陣中見舞い」の言葉を久しぶりに見ました。近頃ではこの意味で
「差し入れ」を使うようです。「差し入れ」は本来は留置あるいは
拘置されている人に使う言葉だったと聞いたことがあります。


   滋賀県刑務所内の拘置施設から差し入れの本を返却する際、
手紙を隠して元妻の小林容疑者に公判で自分に有利な嘘の証言
をするように依頼。(京都新聞


このように刑務所を連想させるので、一般にはやはりこういう場合は
陣中見舞いのほうが心が伝わる気がします。


 ブランチミーティング用に早朝から手料理を作り、
   スタッフに差し入れることは日常茶飯事。   
                    (清野由美 『アエラ』


やはり「陣中見舞い」のほうが上品です。ですが、
ここでは仕事での会議ですから、つまり自分もメンバーの一員ですから、
差し入れも陣中見舞いも不適切なような気がします。
「気を使って用意する」あたりでしょうか。


国語辞典では拘置者へ品物を届けることを第一義とし、
仕事に精を出している人への慰問・激励として飲食物を届けること
の意味を広義・比喩としているのがほとんどです。





2012年12月13日木曜日

子供が嫌いでしょう  


言葉には直截に語る場合と、間接的に物語る場合とがあります。

あからさまなもの言いは嫌われます。

女優の江角マキコさんのインタビュー記事です。

 

 

  ―フルメイクをすることはない?

   「役作りなど必要があればしますが、私的には、これが私にとっての

フルメイク。ふだんはまったくのすっぴんですから」

  ―外に出かける時も。 

   「はい」

  ―サングラスで隠すとか。

   「いえ、かけませんよ、だってサングラスかけてるお母さんなんて

子供が嫌いでしょう」     (『クロワッサン』2010

 

 

芸能界のことにはとても疎い私でも、このやりとりで、

あ々、江角さんは既婚で子供もいて、

仕事がオフのときは子どもさんを連れて買い物に行ったりするのだな、

とわかりました。

 

 

それをさりげなく言ってしまう。奥ゆかしいといえば言いすぎですが、

私は好きです、こう言う言い方。

(でも「私的には」という言い方はキライです、江角さん。)
 
 
 

 

2012年12月10日月曜日

句読点 (三)

英語では句点は periodあるいは full stopといい、
読点はcomma です。コンマに関して面白い話があります。

 

米国の週刊誌New Yorkerの編集長ロス(Harold Ross)はコンマ賛成派。
この『ニューヨーカー』にコンマ不要派のジェームズ・サーバー(James
Thurber)が寄稿していました。
 

編集長のロスはコンマを打つほど文章は明確になるという考えでした。
それでロスがred, white, and blue とコンマを使うと、
サーバーは  red white and blueが良い、だってそんなにコンマを打ったら
星条旗に雨がボタボタ落ち丸まって見える、
とけんか腰で反論するありさまでした。

 

そんなある時、ある記者がコンマ嫌いのサーバーに訊ねます。
 
 After dinner, the men went into the living-room. の1文に、
コンマを使ったのはなぜですか」と。

 

この記者も意地が悪い。サーバーがコンマ嫌いであることを知っていた
のですから。ところが、サーバーはユーモアの達人、その返答が冴えています。
 

「男たちが食事を終えて、椅子を後ろに引いて席を立つ時間を与えたい
というのがロスの流儀だから」と。
 

自分の原稿を採用するかしないかはロスが実権を握っているのだから、
不本意ながらコンマを使ったのだというわけです。悔しかったのでしょう。




ついでに、「カネオクレタノム」の英語版の例を1つ。

    Mr. Speaker, I said the honorable member was a liar,
 it is true, and I am sorry for it. 

 (議長、確かにわたしはあの議員閣下がうそつきであると
  申しましたし、そのことを申し訳なく存じます。)

 
これはきちんと陳謝しています。これのコンマをピリオドにすると

  Mr. Speaker, I said the honorable member was a liar.
  It is true and I am sorry for it. 

(議長、確かにわたしはあの議員閣下がうそつきであると申し
ました。これは事実でありまして、まことに残念なことであります。)

 

となり、すこしも謝罪していません。していないどころか、
なおも告発しています。これは郡司利男著『英語 謎遊び辞典』(開拓社)に出
ています。


2012年12月9日日曜日

句読点 (二)

句読点がいかに大切かを教える古典的教材は
電報文「カネオクレタノム」です。
「カネオクレ、タノム」の解釈に対しては「田飲んだら百姓が困る」と
チャチャを入れて楽しんだものです。
このような地口で多くの子どもが語彙を豊かにしました。
今の子どもはこのような言葉遊びを教えられているのでしょうか。



裏千家の家元の意見です。

   
    句読点が入りすぎる文章も薄気味悪いが、句読点や段落は
    一息いれる場所。生活の中のあいさつとおなじ。
                                    (京都新聞

 

なかなかうがったことをおっしゃいますね。

 

金田一春彦さんは

   日本語には句読点や「 」のしるしが発達しなかったと言われますが、
     日本語の場合には句読点が、まあ、なくてもすむのです。つまり、
          漢字・平仮名の組み合わせによって、切れ目は平仮名の次に漢字が
          来ていて、そこにあると見られるからです。
               例:「七色の谷を超えて流れてゆく風のリボン」

(『日本語の特質』NHKブックス)


とおだやかに教えてくださいますが、「まあ、なくてもすむのです」と
のんきなことばかりではありません。読点の位置で極めて深刻な事例が
新聞に載りました。訂正記事です。

    8日付け「青あざが消えません」の文中、「血友病や白血病などの
           悪性腫瘍も疑われます」とすべき所「血友病や白血病などの
           悪性腫瘍も疑われます」とまぎらわしい記述をしてしまいました。
           血友病は決して悪性腫瘍の一種ではありません。

                     (京都新聞

 

なるほど、文を終わりにするのが句点(。)で終わりにするほどではないが
語句を断絶するのが読点(、)ですから、
「血友病や白血病などの悪性腫瘍」と並べてしまえば、
血友病と白血病が並置されてしまいました。その結果、
血友病も白血病も共に悪性腫瘍ということになります。

ところが、「血友病や、白血病などの悪性腫瘍」とすれば、
「血友病」と「白血病などの悪性腫瘍」をテンで切り離すことができます。
血友病が悪性腫瘍と解釈される誤解を解くためテンを打ち、
「血友病は決して悪性腫瘍の一種ではありません」と訂正したのでしょう。
きっと関係者から指摘があったのに違いありません。


2012年12月7日金曜日

句読点 (一)

句読点は、読みやすくするための、あるいは、
意味の曖昧さを避けるための文章作法です。
だから、目上の人に書く手紙に句読点を打つのは、

「あなたは読むのに苦労なさるでしょうから、
読みやすいようにテンとマルを打っておきます」

を意味することになり失礼とされたそうです。
だから、昔の人は句読点を打たなかったのだ、と
漱石の何かで読んだ記憶があります。

 
事実を調べずしてあてずっぽうで言えば、
句読点そのものが発明されていなかったのでは
ないでしょうか。
テンやマルが使われるようになったのは明治の頃だと
聞いたことがありますが、明治は44年も続いたのだから
いい加減なことはいえません。

 
井上ひさしさんによれば、新聞社が全紙面で句読点を実施したのは、
朝日が昭和二十五年七月、毎日は二十六年一月、読売は二十八年一月か
らだそうです。(『ニホン語日記』文激春秋)