2012年10月31日水曜日

室生寺(二)


 次は広告のコピー文句。

   憶えていますか、初めてバイクに乗った時の感動を
   走ることで四季のうつろいを身体で感じ、
     風を受けて走る楽しさを
    もう一度、バイクに乗りませんか、
         忘れていた何かがきっとみつかるはず
   そして これからバイクに乗ろうとしている人、
         きっと新しい自分に出会えることでしょう
       「もう一度」と「これから」
         そんなバイクに乗る人たちを○○は応援します
        さぁ バイクの愉しさをご一緒に、△△開催です。

これを読んで、バイクまた始めようかな、バイクってよさそうだな、
と誘われる人もいるに違いない。何となく心地よいフレーズが
並んでいるから。ハンドルをにぎる彼の背中にしがみつき、
真夏の北海道の一直線の道をバイクで走りたい……。そんな夢も膨らむ。

しかし現実にかえって、もう一度読んでみよう。
そしてバイクとその関連の語句を消してしまうとどうだろうか。

    憶えていますか、初めて(  )に乗った時の感動を
   走ることで四季のうつろいを身体で感じ、
     風を受けて走る楽しさを
   もう一度、(  )に乗りませんか、
   忘れていた何かがきっとみつかるはず
   そして これから(  )に乗ろうとしている人、
     きっと新しい自分に出会えることでしょう
    「もう一度」と「これから」
     そんな(  )する人たちを○○は応援します
     さぁ (  )の愉しさをご一緒に、△△開催です。


(  )には乗って走るスポーツならほぼ何でも入るのではないか。
 ヨット、自転車、馬、カヌー、急流下り、ジェトコースター、筏(!
 などなど。

  こうなったら、動的な言葉「走る」も消してみよう。

憶えていますか、初めて(  )をした時の感動を
   (  )をすることで四季のうつろいを身体で感じ、
    (  )をする楽しさを
   もう一度、(  )をしませんか、
         忘れていた何かがきっとみつかるはず
   そして これから(  )をしようとしている人、
    きっと新しい自分に出会えることでしょう
   「もう一度」と「これから」
    そんな(  )をする人たちを×××は応援します
    さぁ (  )の愉しさをご一緒に、△△△開催です


今度は静的な趣味路線の、生け花、書道、絵手紙、スケッチ、
写真などでいってみよう。
この骨組みさえあればこんな広告さえ作れる。

   憶えていますか、初めて恋をした時の感動を
   恋をすることで四季のうつろいを身体で感じ、
     人を恋する楽しさを
    もう一度、恋をしませんか、
     忘れていた何かがきっとみつかるはず
   そして これから恋をしようとしている人、
         きっと新しい自分に出会えることでしょう
       「もう一度」と「これから」
        そんな恋をする人たちを私たちは応援します
         さぁ 恋する愉しさをご一緒に、○○開催です


室生寺の文章もバイクの広告文も固有のものを語っているようだが、
じつは他のことにも入れ替えができる。ここが難しい。
何をどのように書けば独自の表現ができるのだろうか。
 
いくら書いても、しっかり伝えたいことが、やはりペン先からもれてしまう。
それを表現することがいかに難しく大切なことかを知ることが
物書きの業なのだろう。

 能のことは全く無学だが、次の潔い一節を引いてこの項を置こう。

    何と形容したらいいのだろうか。たとえば水晶のように透明で、
    澄み切った音声(おんじょう)、などといってみたところで
       説明したことにはなるまい。(白洲正子『行雲抄』
 
 

 

2012年10月30日火曜日

室生寺 (一)

言葉は何かを伝達する道具だ。
自分の思いを伝えるためには自分の言葉を持たなければならない。
伝えたい、どうしてもこの思いを共有してもらいたいという
熱い思いがなければ、どれほどの言葉を使っても
何も語っていない文章となってしまう。

 

日常の喧噪を忘れられる室生寺は、のんびりと訪ねたいお寺の
一つです。新緑が香る頃、山を彩る紅葉の頃、凛とした寒さに
包まれる頃…、季節ごとにいろんな表情を見せてくれるので、
毎回新鮮な気分で楽しんでいます。 


これは『クロワッサン』に載ったある女性タレントの文章。
近頃のエッセイスト、レポーターなどにみられる典型的な
何も伝わらない文といえる。

なぜそういえるのか。
それは「室生寺」を神護寺、醍醐寺、東福寺に置き換えても
それなりの文章になるからだ。さらに京都や、寺に限らず
他の観光名所に変えることもできる。日光東照宮、華厳の滝、
阿蘇の草千里、蔵王のお釜などと置き換えても
そつなく通用する文章だからだ。

つまり、室生寺について何も語っていないのだ。

 文章をつづる時何を伝えたいのか、
その事柄をどれほど自分は熟知しているのか。
なぜ伝えたいのか。
その思いがないとただ言葉を並べているだけにすぎない。






2012年10月29日月曜日

テニスはお好きですか   


すぐれたインタビュアーは「ご趣味は何ですか」とは尋ねないそうです。
「テニスはお好きですか」と一歩踏み込むそうです。
テニスが好きにしろ嫌いにしろ、そう尋ねたときにもう自分の土俵に
相手を取り込んでいるのです。具体的な話題ならだれだって話しやすいし、
好きか嫌いかを問われれば答えやすい。
インタビュアーはその返答がイエス、でもノーでも話を継ぎ足していけます。

 米国映画 Executive Decision (1996) はテロリストが飛行機を乗っ取る話
(ホントはもっと複雑)ですが、
機転を聞かせて協力してくれた女性アテンダントのジーンを、
主人公の男性が事件解決してコーヒに誘うラストの場面で
「ジーン、教えて、ホッケーは好き?」
「ホッケー? 私は野球の大ファンよ」
とかわしながらの夜の街に消えていくところでジ・エンド。うまいですね。
きっと熱いコーヒーを飲みながらホッケーの面白さ、
野球の華やかさを競い合うのでしょう。

 

桂米朝師匠は対談の名手だそうです。
その秘訣を米朝さんが次のように明かしたと小佐田定雄さんが明かしています。

      どうしても聞きたいことがあった場合は、そのことについてわざと
   間違えたことを言うんやね。すると、
      「おまはん、何をいうてんのや。そやないがな。それはな…」
      という具合にしゃべってくれるんや。

こういうテクニックはしっかり身につけておきたいですね。

 Jennifer Weinerの小説 Then Came You にこんな場面があります。

女子大生の私が food court にいると、
男がテーブルの向かいに腰を下ろそうとします。声を掛けられたら、
すぐ食べ終えて、友達が待っているから、と返事しようと構えます。

 
「君は何かスポーツをしてますか」とその男が口を開きます。
This was a surprise. I’d been betting an either What’s your
major or Where are you from … either that or he’d ask me for
help, the most common ploy.

 
ショッピング・モールでは男の子たちは、
女の子に声をかけて、きっかけを探します。
 
見た映画で気に入ったのがある?
妹にネックレスかセーターを買ってやりたいんだけど
(ジムでは)このマシンの使い方知ってる?
(食料品店では)パスタ選びを教えてくれない?
(ガソリンスタンドでは)市役所はこの道でいいの?
(教室では)宿題の本をよんだ?
週末は何か予定がある?
そんなきっかけ台詞のオンパレードだから、
その男の意表を突く質問に

“Field hockey and lacrosse.” と、素直に、答えてしまいます。
ここから物語がすすんでいきます。
 
 
 

常套手段ではなく、自分だけの言葉遣いを心がけなくっちゃ。

2012年10月28日日曜日

とられる

   鳥越俊太郎 (私の父は)対人恐怖症になって最後は会社も
         辞めてしまうんです。で、寺で修行したりしていたんです
         が、戦争で中国の北のほうにもっていかれまして

   菅原文太  応召ですね。(中略)(おれの親父も)絵を描くように
         なって、いいところまでいったんだけど、肝心な時に
         戦争にとられちゃって……。
                    (対談 「本の窓」小学館

何と悲しい言葉だ。戦争は人を人間扱いしない。
人は勝つための道具にすぎない。あたかも畑になっているトマトのように
家族からひきはなしてしまう。兵隊は「物」扱いなのだ。
だから「兵隊にとられ」て「南方にもっていかれる」。
今東光原作を映画化した『悪名』シリーズの『新・悪名』でも
「父ちゃんは戦争に取られ、長男はやくざになって」
と武原豊が吐き出すように言う。
 
新聞の読者投稿でもその理不尽さが繰り返し語られる。

   ある日突然、父に赤紙がきて戦争に取られ、その後鹿児島の
   親類を頼っての生活は、母ひとりで3人の子どもを育てるのに
   大変だったことでしょう。(都新聞2011.1.16

その悔しさをこの言葉に込める。
兵隊にとられないためには手を尽くした。

   (堂本印象は)国策に協力した理由について
   「そうすることで弟子を兵隊にとられないようにしたかった」と
    後に近親者に語っており、大画塾を率いて苦悩したもう一つの顔も
    垣間見せている。(京都新聞2012.1.21

     

戦争を生き延びた人たちがその戦争の理不尽さを語るとき必ず
使う言葉だ。だからいつまでも記憶は繰り返し語られなければならない。

        花森安治の「一せん五厘の旗」を買って読む。
   1978年に亡くなった先輩編集者の、生涯の書というべき一冊。
   一せん(銭)五厘とは、かつてのはがき1枚の値段、
   それよりも安かった昭和のいのち。軍隊にとられ
   戦後は雑誌「暮らしの手帖」ひとすじに生きた人が、
   毎日書いた文章から、29編を選んだ直言集だった。
       (沢地久枝 京都新聞2012.4.29
 
 

 

2012年10月27日土曜日

バナナ (banana)

  
日本では下(あるいは底尻)のほうを持って柄からむく人が多いが、
タイや中国では逆に柄の方をもって下から剥くらしい。
というと、タイの人は変だとか、どっちの剥き方が優れているかとか
そんなことをすぐに言い出す人がいる。


実際に両方の剥き方を試してみると、
剥きやすさ優先が日本、
持ちやすさ優先がタイ、
ただそれだけのことだ。
剥きやすさや持ちやすさは慣れてしまえば同じだ。
自分の殻から抜け出すのは難しい。
 
 

2012年10月26日金曜日

ひよこ

御池通りを歩いていたら「歩」と書いてある大きな丸い提灯が
目に入りました。鉄板焼きの店です。

 

近づいてよくみると「ひよこ」とルビが降ってあります。
なんで「歩」が「ひよこ」?



烏丸御池の交差点で信号を待っているとき、思い出しました。

 
  あばれ香車なら どろんこ桂馬
  乱れ角なら むかい飛車
  坂田三吉 勝負にゃ泣かぬ
  可愛い小春の ために泣く

 
石原裕次郎が歌う『王将・夫婦駒』です
その3番の出だしにありました。

   勝てば王将 負ければ歩(ひよこ)

 大阪の方言だと思いますが、
素人などの意味なのでしょうか。

2012年10月25日木曜日

通り抜け禁止  

京都下京区にある天満宮の入口に
写真の注意書きが掲げられています。


 

通り抜け禁止 


これが逆効果だとは分かっていないようです。
「通り抜け禁止」を読み替えれば
「通り抜けられる」ことを知らせているのです。
何も書かなければ、通り抜けられるかどうか通行人には
知る由もないのですから。

 
言葉はその言葉以上のことを語ります。
もっともこんな警告を与えても通り抜けるのが人情、犬の常。
私も通り抜けてみましたが、4角形の2辺なので、
残りの2辺を通っても、どちらも距離は同じでした。

 とすると、警告を無視しても徒労だよ、
とからかっているのでしょうか。
京都人は「いけず」といいますからね。

2012年10月24日水曜日

ホームズ

お待たせしました、
いよいよ名探偵シャーロック・ホームズ登場! 

といきたいところだが、スペリングが違う。
ベーカー街B-2の住人は Sherlock Holmes

ここで話題にするのは同音意綴のhomes
カナダとアメリカ合衆国の国境にある五大湖
Huron,  Ontario,  Michigan,  Erie,  Superior
の名前の頭文字を組み合わせるとhomesになる。
米国の小学生の五大湖記憶法だそうだ。


 

 なるほど、うまいネ、と感心するのは記憶術の素人。
なぜかというと、並んでいる順序が無視されているかである。
どうせ覚えるなら完璧主義でいきたい。

私の工夫は西から順に「スミヒエオ(←炭冷えろ)」。
完璧主義者としては駄作だが、homes よりは
一頭地を抜いていると思うのだが、
それも自画自賛にちがいない。

2012年10月23日火曜日

ありんす    


「ありんす」は、現代日本語の「です、であります」に
相当する言葉で、江戸時代の遊女言葉の典型です。
吉原の遊女だけがなぜこのような言葉を使ったかには
諸説があります。

   地方の貧しい農家の娘などが、売られて吉原の遊女と言われた。
     それゆえ「そうだっぺ」とか「おらあ知らねえ」とかの方言しか
   話せなかったが、それでは艶消しである。
   それで、吉原の遊女独特の〈ありんす言葉〉というのを作って、
   遊女たちに覚えさせた。     (加太こうじ『江戸の笑い』


 もう一つの説があります。身売りして辛い職業についたうえに、
お国ことばからその出身地が客に分かってしまうのはなお辛い。
詮索好きな客は根掘り葉掘り遊女に出自を問いただすだろう。
そこでそれをカムフラージュするために日本のどこにも存在しない言葉を作りだした。

 (くるわ)言葉は出身地を隠す知恵だという後者の説に、真偽はともあれ、私は(くみ)します。