2012年10月15日月曜日

甕を割る


こんな逸話がある。

子供たちが大きな水甕の周りで遊んでいたところ、
よじ登った一人が誤って中に落ちてしまった。
このままではおぼれ死んでしまう。
しかし、子供たちだけでは助け出せない。
運悪く大人がいない。その時一人の子が、
とっさに石を投げつけて甕を割り、助け出した。 

 発想を変えれば、どんなに解決不可能と思える難問でも
答えが必ず見つかるというたとえ話だ。

「甕は水をためる大切な器」であることは言を俟たない。
グーグルで検索すると

   から柄杓でお酒を汲み合い、好きな話を肴に…。

   藍甕を敲きて秋思身近かにす   工藤菁生

 など甕はよい意味で使われている。

しかし、水を手に入れることが困難な砂漠地帯では、
何キロも離れた泉に日に何回も水を汲みに行く。
そして、水を貯めるのに甕は無くてはならない大切な物だ。
だから甕は割らないように気をつける。

だが、毎日何往復も水汲みをさせられる子どもにとっては
水甕は憎らしいにちがいない。この甕さえなければ毎日の
辛い労働から解放されるのだから。

 このように考えると、甕に限らずあらゆるものに相反する面があると言える。
「甕は割ってもよいのだ」はコペルニクス的発想の転換
しばしば言われるように、ルールは人を幸せにするために作られる。
そのためルールは守らねばならない。しかし、ルールは破ることも許される。
ルール破りにもルールがあること知らぬ者がルール破りをしてはならない。

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