2012年9月30日日曜日

日本語の「  」は一字一句たがわず伝えるのか(終)

さらに重要なことがあります。芥川賞受賞者の会見記事です。
3紙から最初の1段落を転載します。

 
   芥川賞に決まった直後の記者会見で「当然です」と言い切った。
         「4回も落とされたので断るのが礼儀だが、私は礼儀を知らない」とも。笑顔を見せず、記者に「不機嫌にみえるんですが」と言われて「もう(会見を)やめましょうよ」。  (京都新聞)

 

受賞の感想を聞かれても「気持ちの変化はありません」と終始、
質問相手をにらみつけ、二言目には「もう、(会見は)やめましょう」を連発、会見は8分ほどで終わった。(オンライン)

 

   「私がもらって当然」。緊張や照れを吹っ切るように、
意外な言葉で受賞会見を切り出した。女優シャーリー・マクレーンが5度候補に挙がった末、アカデミー賞を受けた時の言葉。5度目の挑戦で賞を射止めた心境を自らちゃかしてみせた。(毎日新聞)


3紙を読んで、受賞者への印象はずいぶん違います。
最初の2紙からは、不遜な態度が強調され、3つ目からは、記者の補足説明があるので、あれはそういうことだったのかと理解が深まりました。


こう並べて見ると1紙購読の危なっかしさが気になりますが、
23つもとるわけにもいかないし、困った、困りましたね。

 

 

2012年9月29日土曜日

日本語の「  」は一字一句たがわず伝えるのか(2)

もう少し実例をみてみましょう。


   初戦出された京川舞は、仙台市の常盤木学園高で記者会見し「中学時代から日本代表になりたいという思いを持ちながら練習してきた。うれしく思うが、これからが勝負だ」と抱負を述べた。(京都新聞)

 
女子高校生がこのような言葉遣いをするはずはありません。
字数をへらすために記者が書き直したのは明らかです。

 

 少し古い(2008年)ですが、別の新聞報道の例を見てみましょう。新聞各紙をオンラインで読むと微妙に異なっています。

    福知山成美(京都)の椎葉一勲(かずひろ)主将が「全国の人に元気、勇気、感動を与えられるよう、正々堂々とプレーをし、日本中に高校野球のすばらしさを伝える」と選手宣誓。(朝日新聞)

 
開会式では、希望者の中から抽選で選ばれた福知山成美(京都)の椎葉一勲主将(3年)が選手宣誓。「全国の人に元気・勇気・感動を与えられるよう正々堂々とプレーし、高校野球のすばらしさを伝えることを誓います」と述べた。(毎日新聞)
 

福知山成美の椎葉一勲主将が「高校野球のすばらしさを全国の人に伝えることを誓います」と選手宣誓した。(京都新聞)

 

これを読み比べると引用の「 」が発言そのままを伝えているのではないことが分かります。朝日では「プレーをし」ですが、毎日では「プレーし」となっています。朝日の「日本中に高校野球のすばらしさを」が毎日では「日本中の」がありません。京都新聞では「全国の人に」の位置が他紙とは違っています。

 
名探偵コナンも言うとおり「真実は1つ!」のはずなのに、真実を伝えるのが新聞の使命のはずなのに、3紙3様です。


 これから分かるように「  」は一言一句そのままを引用しているという約束はありません。引用された「  」は意味を変えない程度に、伝達者が言い直していることもしばしばあると理解しておく必要があります。
 
 

2012年9月28日金曜日

日本語の「  」は一字一句たがわず伝えるのか(1)   


日本語では「 」で人の言葉を引用しますが、
その引用された言葉遣いは一字一句そっくりそのままではありません。
むしろ伝達者が適当に変えることがふつうです。
 
井上ひさしさんが取材をかねて横浜中華街を訪れると、
大学生の「盛り場研究会」が「ここのどんなところが、あなたの気に入っていますか」
というアンケートをとっている。
それで井上さんはこれまでの集計結果を見せてほしいと頼みます。

  「飯店の佛跳牆(フォテユチャ)という料理をご馳走してくれるなら」ということで話がまとまった。(井上ひさし『ニホン語日記』)


まさかその大学生が「某飯店」と言ったはずはなく、店名を告げたはずです。
それを井上さんは固有名詞を避け「某」としたのです。
この例のような言い換えは常套手段ですから、人の発言を孫引きするときは要注意です。

 

次は新聞の読者投稿です。

   四条京阪へ行くと、
     「守口で人身事故があり、お急ぎのところ申し訳ない
      と何遍もアナウンス。   (京都新聞

これが駅のアナウンスそのままのはずがありません。
利用客は「申し訳ない」とはなんて誠意のない謝罪だ、と憤慨したでしょう。
実際には「申し訳ございません」だったに違いありません。
 
引用はこのように引用者の都合で書き直されるのが実情です。
 



 

2012年9月27日木曜日

なんで泣きはる、泣いてはる 

日本語には珍しい時制の一致の例です。


    ぼくが子供の時分は、「すきやき」いうたら牛肉やのうて“かしわ”のお肉をつこおてました。農業をしたはった親戚の家でよばれたすきやきの味は、今もってはっきり記憶しております。当時の農家では、大抵自分とこで鶏を飼うたはって、すき焼きは最高のもてなしであり、ご馳走でした。(飯田知史)

この「たはった」は時間の幅がありますから、
英文法でいう現在完了[継続]に似ていま

 
次の例は「はった」が4回でてきますが、「失敗しはって」「謝らはった」「感動しはった」は過去1回だけの行為に使っています。「言いふらしたはりました」はやはり時間の継続・繰り返しを表しています。

   あるとき、事務職の女性が何か失敗しはって、関東出身の先生に向かって「せんせ、かんにん」と謝らはった。それを聞いた先生は非常に感動しはったらしく、ことあるごとに「かんにんと言われちゃってさ、困っちゃったよ」と、あちこちで言いふらしたはりました。(井上彰一)

  

    次の例は過去のことではなく、現在のことです。

京都の春の代表的な食材「竹の子」。洛西や山城などでは、
世界一の竹の子を丹込めて作ったはります。(飯田知史)


 これも現在完了[継続]でしょう。「作ってはります」でよいと思いますが、そうはいわないのでしょうか。「…はります」には「…した、…た」形が前にくるのでしょうか。それはともかく、このように続出するのを見れば京都方言のようです。

 

フランク永井『こいさんのラブ・コール』では「なんで泣きはる、泣いてはる」は「泣いたはる」ではありません。現在のことは「てはる」なのでしょうか。なんだか、きちんとした語法がありそうでもあり、京大阪で適当に言っているだけのような気もしないでもありません(そんなことはないでしょうけど……)。

2012年9月26日水曜日

洗濯してあげる  

4人の女性が性に関して大胆に語り行動する映画『セックス・アンド・ザ・
シティー』にこんな場面があります。
急速に親密になった二人が家を捜しに行きます。
そして男が両親に会ってくれと言ったきり連絡が途絶えてしまいます。
それを女性が友人に告げて、

   「いっしょに家を捜しに行ったらイギリスでは求婚と同じことよ」

と言います。だのにあいつは、許せない、ということでしょうか。
イギリスでなくても現代の日本でもこの含みは同じでしょう。
 

江戸時代では女性が「着ている物を洗ってあげる」と言えば
性的関係を許容してもよいことを意味したのだそうです。
これは現代では社会的に了解されてはいませんが、
そういう心情はあるのではないでしょうか。

   (今度あの人の下宿に行って、洗濯してあげるよ。糸針をもっていって……靴下だって、繕ってあげる)彼女は自分が日あたりのいい流しで大学生さんのシャツや下着を洗っている姿を心に思いうかべた。たしかに三カ月ほど前にみた映画のなかで1人の娘が恋人の学生のために溜まった汚れものを洗濯している場面が出てきたわ。娘は学生が一日中、勉強できるように彼のを洗っていた。ミツもあの旅館の出来事があって以来、吉岡さんの洗濯をしてあげたくて仕方がなかったのだ。あたしだってやくにたつわ。映画に出てきた恋人そっくりにやってみたいわ。
            (遠藤周作『私が・棄てた・女』)

 

ところが洗濯機の普及がこんな情緒をぶち壊してしまいましたね。しかも洗濯機でも父親の下着と一緒に洗うのをいやがるのは娘だけでなく、驚くことに奥方にもいるそうです(驚くことではないか)から、男と女の愛憎表現は機械と共に変遷するという面も確かにありますね。

2012年9月25日火曜日

みじかびの   


日本人は七五調が好きだ。好きというよりは
日本人にとってなくてはならないリズムではないでしょう。
何しろ西洋の詩さえ七五調で訳してしまう技巧派国民なのですから。 

   山のあなたの 空遠く 幸い住むと ひとのいう


魚だって五七五が大好きなようです。

  屋久杉やとびきりの雨かぶりゐる飛魚や五七五と沖へ飛び               

 

笑いだって七語を踏襲して『ははははハハハ』(永六輔・矢崎泰久著 講談社
文庫)と書名にまでなってしまいます。


五七調は短歌や俳句の韻律だから当然といえば当然。

その音()()を楽しむCMコピーが1969年に大流行しました。


  みじかびの きゃぷりてとれば すぎちょびれ すぐかきすらの はっぱふみふみ
 

万年筆の広告だから「キャップ、書き、文」のくすぐりを入れて大橋巨泉が
笑わせました。テレビで見るたびに笑ってしまいました。意味はないのに意味
を捜そうとして、リズムの心地よさに腑抜けにされていました。



 

2012年9月24日月曜日

肌を合わせる   

すがすがしい秋口の話題にどうかとは思いますが
「肌を合わせる」について。
これはてっきり男女のことに使うとばかり合点していたのですが、
ガツンとやられました。

   実際に肌を合わせた者にしか分からないことがある。おれの経験は引退して指導者になってから生きると思うんだ。それを後輩たちに伝えたい。(京都新聞

 
1046勝の最多勝力士となった魁皇の言葉です。
これまでの対戦相手、若貴兄弟、曙、朝青龍、琴欧州など外国人力士とも裸でぶつかった、それを「肌を合わせた」とはなんとも粋ではありませんか。

 これだけではありません。元横綱 隆の里の鳴戸親方が亡くなりました。
その追悼記事です。 

   両肩の筋肉は隆々。太鼓腹に相手を乗せる豪快なつりで賜杯を
         4抱いた。(京都新聞

 いやーもう色っぽい世界ではありませんか。
 
 

2012年9月23日日曜日

また来るんですか


かなり前の話ですが、所属している会の例会がありました。
会が終わるといつも懇親会があるのですが、その居酒屋での一幕。

アルバイトの女性がビールジョッキを載せたお盆をひっくり返してしまい、
そのビールが会員の一人の腰にかかってしまいました。シャツもズボンも
濡れてしまいました。責任者らしい男性2人も飛んできて
おしぼりやペーパータオルで拭きました。 

すみませんとなんども謝っていました。でも全部片付けると下がってそれっきりです。改めてクリーニング代でも持ってくるかと思いましたがそれっきりです。それで私は責任者に会いに行って、クリーニングのことはどう思っているのか聞きました。払うので領収書をもって来てほしいという返事。洗濯代を補償してくれることになったので一件落着。

 

 帰宅して家人に話すと、
「それではわざわざ店までもう一度行かなくてはならないじゃありませんか。どうして現金でもらわなかったのですか」と叱られてしまいました。
店が相応分をその場で包むのが当たり前だというのです。
そう言われればその通りです。不測の事態でどう対処するかにおいて、
まだまだ私は修行がたりないと自省して幕。

 
それからしばらくしてのことです。
男子柔道で金メダルをとった石井慧選手が、
出身地大阪茨木市役所を訪問したことが報じられました。
市長から市民栄誉賞授与を持ちかけられて、
石井慧選手は「また来るんですか」と。(京都新聞

 

この「また来るんですか」は練習時間をつぶしてまでは「来たくない」の
辞退の意味だったのです。栄誉賞より次の試合に向けての練習の方が重要
という価値判断をしたのでしょう。それが、「また来るんですか」。


 なるほど、私もあの時、「また来るんですか」といえば店長の思い違いを
諭す寸鉄を打ち込むことができたものを、と悔やむばかりです。
ホントに言葉となんとかは使いようですね。
ハイ、イイエではない言葉で気持ちを伝えるのが大人の会話でしょう。
こんな気の利いた会話は米国の映画に多いと思いませんか。

 

2012年9月22日土曜日

酒の上とはいえ  


 荷風散人は傍若無人な酔っ払いが大嫌いだったようで、

日本人の酒に酔いたるほど見苦しく酒の上の暴言乱行は許されるべきものと承知の上にて敢えてするもの(すくな)からず」 (永井荷風 『断腸亭日乗』

と厳しい。

そういえば、酒に酔っていたので覚えていませんと釈明した政治家もいた。それで罪が軽くなると思っているその心の貧しさ。

 「酒が言わせた言葉だと なんでいまさら逃げるのよ」とバーブ佐竹の『女心の唄』にあるように女性にもいちばん嫌われるタイプ。
 
「酒に酔っていたので」とは見苦しい態度なので、
たとえどんなに酩酊していても口に出してよい言葉ではない。
ではどういう時に言うべき言葉なのか。


 その使い方を教えてくれる場面に出会った。

 隠し子だった息子新之助を家に入れたがひどい乱暴者。その新之助が酒に酔って同じく養女のお光に手を出した。それを止めようとした出入りの者にも大暴れをしている。そこを東吾に一喝されて、新之助は外へ逃げ出す。新之助が暴れた経緯を、東吾が聞くと、養父は

「情けないことでございます。酒の上とはいえ、素人の娘を、まるで女郎かなんぞのように心得て……」  
    (平岩弓枝『藍染川』「御宿かわせみ 九  一両二分の女」所収)


と答える。つまり、「酒の上とはいえ」は本人が口にすべき言葉ではなく、被害を被った方が、許せない気持ちを強めていう言葉ではないのか。


 「酒の上だから余計に許せない」という本心を覗かせた言葉なのだ。
 百歩譲って「酒を飲んで正体を失っていたのだから大目に見る」という意味だとしてもそれは許す立場の言葉であって、酒を飲んだ本人が決して弁解に使ってはならない言葉だろう。こういう機微を小説が教えてくれる。

 

2012年9月21日金曜日

上海


 「シャンハイ」で「上海帰りのリル」を思い出す人はとうに還暦を過ぎているに違いない。あの歌の異国情緒に浸ってもよいが、英語の Shanghaiを手元の英和辞典を引いてみると、あっと驚くタメゴロー!(これも古い!)で、もうひとつ意味がある。

 
    shanghai 他動詞 (俗語)(古語)  (酒・麻薬・暴力で)〈人〉の意識を失わせて船に連れこんで水夫にする。
                       (ジーニアス大英和)


学習用英和辞典にも 「((略式・古))〈人〉を(だまして・無理に)~させる。」などと出ている。何ともはや恐ろしい。かつて上海ではこのような犯罪がまかり通っていたのろうか。まかり通っていたから「上海」という固有名詞がこのような意味で一般化されたのだろう。その事情を大文字のShanghai ではなく小文字の shanghai が物語っている。この動詞の「上海する」だが、ものの本によるともっと恐ろしいことが書かれている。


   通行人を暴力で船へ(さら)って来て出帆後陸上との交通が完全に絶たれるのを待って、過激な労役に酷使することを〈 Shanghai する と言って、世界の不定期船に共通の公然な秘密だった。罪悪の暴露を恐れて上海した人間に再び陸を踏ませることはけっしてなかった。絶対に日光を見ない船底のセイカツ、昼夜を分たない石炭車の労働、食物その他の虐待から半年と命の続く者はまれだった。 
                                      (谷譲次『上海された男』)

 
これは日本の推理小説。作者の谷譲次は、本名 長谷川海太郎。もう2つペンネームがあり、牧逸馬と林不忘。この3つの中では「丹下左膳」を書いた林不忘が有名。


2012年9月20日木曜日

鉛筆が足りないなら


子供たちが満足に教育を受けられない状況が世界各地にある。
そういった地域にODAでも援助している。

日本でのあるキャンペーンで、カンボジアの子供が1本の鉛筆をもらって
嬉しそうにお礼を述べている写真を日本の子供たちに見せた。
その場にいた母親が即座に言った。

 「鉛筆が足りないなら送りましょうか。すぐ集めます」

これに対して、活動家は言う。

 「大切なことは、自分の子供に鉛筆を大事にして使いきることを教えることなのです」
 
 



物資の援助は直ぐにできる。でもそれではまとまった金銭を出せば終りのどこかの政府と同じだ。



活動家の言葉は、援助するとはどういうことかを考えさせる。

日頃から地に足のついた確かな考え方をしていないと、薄っぺらな考えが地面に転がり落ちてしまう。

思索しないで語った言葉は必ず自分を裏切る。